TOP

TopページへTOP

                 レイカディア大学 草津キャンパス               

地域文化学科44期へようこそ

【中井講座のページ】

校外学習、甲賀の城


クラス紹介 基礎講座 選択講座 地域活動 大学祭 交流会 課題学習 その他


<甲賀のお城の見学>

見学日   2023年12月5日(火)
場所     甲賀のお城(
天候     曇り、曇天でしたが雨は降りませんでした。
集合    午前10時00分 甲南第一地域市民センター駐車場

甲賀群中惣に関する文化庁のサイト(文化遺産オンライン)を紹介しておきます。
この部分をクリックしてください。⇒甲賀郡中惣遺跡群 文化遺産オンライン



1.本日のフィールドワーク概要

【午前】村雨、寺前、新宮支城跡

 ・戦国時代の甲賀郡は在地の小領主が割拠していたため、300に及ぶ城館があり、同名中(郡中惣)は農民まで平等で協和制をとっていた。
 ・小丘陵に土塁、堀切、虎口等により敵の侵入を防いでいた。
 ・方形にこだわった造りとなっており、3050m四方とこじんまりしたものばかり。特に新宮支城は40m四方、高さ8mの土塁が築かれている。
 ・何れも城主の名前も分からないとのこと。 

  <感想>甲賀の城の成立ちや形状が理解でき、石垣のない「城」もまた大変面白かった。

【午後】水口城址、資料館

 1634(寛永11)年徳川三代将軍家光が上洛する折、宿泊用御殿として築城された。
 1682(天和2)年に加藤明友(加藤嘉明の孫)が石見国より入り、水口藩が誕生し水口城を拝領。
 ・しかし、歴代城主は将軍の宿泊した本丸御殿には「畏れ多い」として使用することがなかったとのこと。
 ・現在「資料館」となっている天主のような建物は、もともと存在せず、行政が水口城址としてのシンボルとして建築したものとのこと。

  <感想>中井先生から、資料には出てこない様々なお話を聞くことが出来ました。

2.見学の様子
 それでは以下、写真と共に見学、解説の内容を紹介します。

 今回も筆者の聞き間違い、理解の誤り、知識の浅さなどがあり、正しい表現で中井先生のご説明を紹介できていないかもしれません。
 その点について皆さんからご指摘をいただきたいと思います。よろしくお願いします。

見学場所  見学の様子  備考
集合場所
集合場所は甲南第一地域市民センター駐車場
路肩に駐車しなければならないため、必要最小数の車で出発です。

 
写真からも当日が曇天であったことがわかります
 
村雨城跡、寺前城跡 <村雨城跡の入口周辺>
 路駐するとのことでしたので、自動車の台数を減らして出発しましたが、道に駐車すると片側でようやく1台の車が通過できる程度でした。入城前の中井先生からご説明も道端で行いました。

 

この地が国指定史跡であることを示す看板がありました。
 

<村雨城跡内部>
ここが城の入口(虎口?)、左右は土塁で一段高くなっています。


土塁に囲まれた内部は平坦地、右の写真で皆さんの後ろ側が虎口
このような城が甲賀に残っているなど全く知りませんでした。
 

土塁の上から平坦地を望む、写真左が虎口、写真上方向にも虎口あり
(写真ではなかなか土塁の高さを表現できません。)




 
寺前城跡 <村雨城から寺前城へ>
村雨城を出るときには急な坂道を下り、すぐに寺前城に入る急な坂道を上りました。この際、複数重の堀切がありました。
  

土塁の高さ、広さを写真で表すのは難しいです。木々の太さ、高さ、人の大きさとの比較及び皆さんの記憶でその大きさ、広さなどを推量していただきたいと思います。
 

隠し門、隠し虎口などがあり、虎口に工夫した構造が見られるとのこと。
単純な虎口である村雨城よりも寺前城の方が進化している形となっているとの説明でした。
 



 
新宮支城跡 <新宮支城跡>
 時間の都合で新宮城跡はパス、新宮支城跡にのみ見学しました。

 ここも路駐で車を止め、入口から入城しました。写真は左が入り口、右が城跡に向かう道中
 

写真左が平坦地の入口手前(入口はこの場所しかないとのこと)
写真右が平坦地 この写真右奥側が土塁、その高さは想像以上でした(高さは約8m?)
 

平坦地から土塁を望む、この土塁の後ろには堀切があり
写真で堀切を撮影しましたが、その迫力を示すことができる写真を撮影することができませんでした
 

人と比較すると土塁の高さが分かりやすいですね。


こんなに大きな土塁があるのに「支城」であれば、新宮城後はもっと大きな土塁があるものと思い、先生に聞いたところ
「新宮支城跡の方が土塁が高く、その規模が大きい。支城とは後で勝手につけただけ」とのことでした。
その当時のことは記録がなく、分からないそうです。

 
水口城跡 水口城とは…
 寛永11年3代目将軍家光が京へ上洛する際、宿営するために建てられた御殿(軍事上の城ではない)
 築城は幕府直営で行われ、作事奉行には建築や作庭あるいは茶道などで著名な小堀遠州政一があたり、延べ十万人の大工を投入して工事が進められました。家光以降の将軍の上洛は途絶え、水口城は城番(5千石~1万石の旗本、大名)が置かれ、これが1年任期で約50年続きました。

 現在の天守がある場所は当時、櫓門の番所があり、現在の水口高校グランドに御殿が建てられていました。

  

 

 資料館内部を見学した後、内堀に沿って城(石垣)周囲を見学しました。

 北門周辺                   石垣、当時の石垣そのものとのご説明、昔はこの上に櫓がありました
  

  

中井先生のお話を聞き、城の概念が随分と変化したように思っています。
一般人は、城=天守(閣)という理解であり、建築物そのものと思っていますが、機能面から城を定義すると城=防御=土木(建築を含む)となります。また、この城が滋賀県にこんなにも多く存在していたことも知り、改めて滋賀の魅力を感じたところです。

皆さんはどのように感じられたでしょうか。1月に開催される発表会にて皆さんのご意見をお聞きしたいと思っています。

最後に、お城の魅力を教えていただいた中井先生に感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。

 
 



ページトップ